『歎異抄』第1条の意義

教え

『歎異抄』の第1条では、阿弥陀仏がどんな人でも手を差し伸べてくれるという教えに触れます。

ここでは、阿弥陀仏の広い心とその救いの手が私たち一人ひとりに向けられていることをしみじみと感じさせる内容になっているんです。

今回はそんな『歎異抄』の第1条の教えを見ていきます。

第1条の内容

第1条は次のような内容になっています。

一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

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念仏を称える意味

『歎異抄』の第1条をの内容を見ていくと念仏を称えることは、阿弥陀仏の本願を信じることでもあることが分かります。

著者の唯円はここで、阿弥陀仏の本願を深く信じて念仏しようとすることができさえすれば、ただちに我々は救われるのだと説いています。

念仏をする者をすぐに自身の光明の中におさめ取って、決して見捨てることはないそうです。

ただし、注意するべきな所は「念仏をするとき」ではなく、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」に浄土に往生する権利が与えられるという点です。

なぜ念仏という行為ではなく、念仏をしようとする心の方が重要視されているかについては、法蔵菩薩の本願についてお話する必要があります。

なお、本願のはたらきについてなるべく専門用語を使わずに説明した以下の記事がありますのでそちらで大まかには把握できるかもしれません。

阿弥陀仏の本願とは

阿弥陀仏の本願というのは、『無量寿経』という経典に説かれている物語に登場する用語です。

昔、阿弥陀仏は法蔵菩薩という一介の僧侶でした。

法蔵菩薩は世自在王仏という仏のもとで、修行をしておりました。

そんなある日、法蔵菩薩は世自在王仏に過去の仏たちが創り上げた浄土がどのような世界であるのかを見せて欲しいと頼みます。

法蔵菩薩が修行者であった当時は、仏となる前に誓いをたてて、悟った際にはその誓いの条件に則った浄土を建てるというのが習わしであったようです。

法蔵菩薩は自身が浄土を建てる際に、どんな浄土にしたら良いかを過去の仏たちの事例を参考にしようとしたのです。

まるで、現代の私たちが大きなビジネスを起こす時だったり、入試の対策をする時などのようですね。

世自在王仏は、法蔵菩薩の要求に応じて色んな仏たちが建てた浄土を見せます。

平等な救い

また、第1条は誰にでも公平に救済のチャンスがあることを教えてくれています。

年齢や性別、過去の行いに関係なく、阿弥陀仏はみんなを等しく救う手を差し伸べてくれるんです。

ただ信心のみが肝要であると説いています。

まるで、太陽が地上のすべてに光を与えるように阿弥陀仏の慈悲も隅々に届くという訳ですね。

救う対象に差別を設けない部分から、とてつもなく寛容な教えであることが分かります。

念仏だけで良い!

親鸞聖人によれば、念仏があれば他の善行はオマケみたいなものなのです。

念仏だけというのはちょっと楽過ぎやしないかという気もしますが、これが浄土真宗のスタイルであります。

信じる心があれば、他のことは気にしなくて大丈夫というわけです。

たとえ、私たちがどんなミスを犯しても、阿弥陀仏の救いはそんなのお構いなしにはたらきます。

どんなに大きな失敗をしても、救済の手は決して離れることはないということです。

これってすごく心強くないですか?

まとめ

『歎異抄』第1条は、阿弥陀仏の優しさと、私たちがただ信じることで得られる心の安らぎを伝えてくれます。

この教えは、いつでも私たちの味方でいてくれる阿弥陀仏の姿を描き、念仏というシンプルな実践を通じて、どんなときも温もりを感じられるよう導いてくれるんです。

ゆえに、第1条は浄土真宗の最も根本的な立場を表している章であると言われています。

次は『歎異抄』第2条の内容を見ていきましょう!

最後までお読みいただきありがとうございました。

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