今回の記事では、どうしようもない悪人が救済されたエピソードが描かれている『観無量寿経』の「下品下生」について解説しています。「下品下生」(げほんげしょう)は仏陀(ぶっだ)が阿難(あなん)と韋提希(いだいけ)という二人の人物に対して説いた話に出てきます。念仏によって救われた悪人のことです。
「下品下生」の教えは重い罪を犯した人であっても阿弥陀仏の慈悲により救済される可能性があることを示しています。以下の文章で、内容を三つに分けてなるべく簡潔に解説しておりますのでどうぞ肩の力を抜いて気軽にお楽しみください!
ちなみに、『観無量寿経』については次の記事で軽く解説しておりますので、余裕がある方は読んでいただくとさらに学びを深めることができるかもしれません。
不善業と悪道に堕ちる状態
仏、阿難及び韋提希に告げたまわく、「「下品下生」というは、或いは衆生有りて、不善業たる五逆・十悪を作る。諸の不善を具せる此くの如きの愚人、悪業を以ての故に悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まり無からん。
『真宗聖典』
この部分は、仏陀(ブッダ)が弟子の阿難(あなんだ)と韋提希(いだいけ)に対して教えを説いている場面です。「下品下生」(げぼんげしょう)について説明しています。
「下品下生」は、阿弥陀仏の浄土に生まれ変わった事例の中で、最も重い罪を背負ったパターンを指します。『観無量寿経』では過去に造った罪と積んだ善行の度合いで九段階に救済の事例を分けています。
九段階もあるの!?と面喰らってしまうかもしれませんがご安心ください。現代の私たちならだいたいの人が「下品下生」に該当するでしょうから他はスルーでも構いません。私たちは仏教の視点で見れば皆どうしようもない悪人であるというわけですね。
不善の業たる五逆・十悪
「不善業」とは悪い行いのことを指します。「五逆」と「十悪」というのが不善業にあたる言葉です。「五逆」は五つの仏教に逆らうような行動を指し、「十悪」は道徳的によくない十の行動を指します。
仏教の悪口を言ったり、お肉やお酒を食べたり、ちょっとでも嘘や汚い言葉を吐いたら即アウトです。要するにだいたいの人が「下品下生」にあたるというわけです。
そして、「下品下生」は様々な悪い行いを溜め込んでいるわけですから悪い行いの報いを将来に受けることが決まっているわけです。仏陀は「悪道に堕す」と仰っていますが、意味するところは地獄道なのか餓鬼道なのか畜生道なのか…とにかく悪い将来が待っているということです。
理不尽ですよね?毎日一生懸命に生きているのになんで地獄に行かないといけないんだって気持ちになりますよね。ですが、そんなあなたでさえただ生きているだけで沢山の人を苦しめているはずです。
私たちが日常的に使うコンビニ、駅、綺麗に舗装された道路、病院など当たり前のように存在する便利な設備は大変な労働の産物であるのはよく知られています。また、私たちが食べるものの中にはコスト削減のために過酷な労働環境で製造されているものが多いです。
生産の過程で無念にも亡くなった方は今も世界中にいらっしゃるでしょう。私たちは意識しなくても常に誰かを苦しめたり殺したりしているわけです。ですから、私たちは数えきれない程の罪を背負う「下品下生」の存在です。
「下品下生」に待ち受ける未来
そんな「下品下生」の人にはどのような結末が待ち受けているのでしょうか?
「諸の不善を具せる此くの如きの愚人」とは、「いろいろな悪いことをしてきた愚か者たち」という意味です。つまり、「下品下生」の人たちを指します。
そして、「悪業を以ての故に悪道に堕すべし」とは、「悪いことをしてきた報いとして悪道に堕ちる」という結末が待ち受けているということです。「悪道」とは地獄・餓鬼・畜生という三つの生まれ変わりのことを指します。
地獄は我々が普段からイメージするあの地獄のことです。次に、餓鬼とは滅多にご飯が食べられない上に、仮に食べることができても一生満腹になれない世界です。そして、畜生とは人間以外の獣に生まれ変わることを指します。
また、本文には「多劫を経歴して、苦を受くること窮まり無からん。」ともありますが、意味するところは「何億年も悪道を渡って、とてつもない苦しみを受け続ける」というものです。考えただけでも恐ろしくなりますね。
臨終の善知識の助けと念仏の効果
此くの如きの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、為に妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。此の人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げて言わく、「汝若し念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。是くの如く心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、念念の中に於いて八十億劫の生死の罪を除く。
『真宗聖典』
この部分では「下品下生」の人が亡くなる前に直面する状況に対する救済方法が説明されています。亡くなる直前、愚かな人々はしばしば苦しみと恐怖に圧倒されて念仏をする心の余裕すら喪失してしまうとのことです。
なお、ここでの「念仏」はどうやら「南無阿弥陀仏」と称える方の称名念仏ではなく仏の姿や浄土などを思い浮かべる観想念仏のことを指しているようです。たしかに心の余裕がないとよくないイメージばかりが脳内を占有して仏の姿をじっくり思い浮かべることは難しそうですね。
加えて、この部分では「善知識」という人の導きも重要視されています。「善知識」とは、「仏教に詳しい友人」のことを指します。お坊さんでも、和尚さんでも、友人の哲学者でも該当するでしょう。あなたを導いで救いに向かわせてくれる存在です。
命の終わりに善知識と会う愚人
「此くの如きの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、為に妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。」とあります。「下品下生」の人が死に直面する時に「善知識」という人に会う場面のようです。
同時に、文の中では「善知識」について「種種に安慰して、為に妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。」と説明されています。さまざまな方法で安心させてくれる上に、素晴らしい教えを説いて念仏するよう促してくれる人のようです。
言い換えると、とてつもなく優しくて有能なお坊さんといったところでしょうか。この「下品下生」の人は最後の最後で幸運に恵まれていますね。それとも、罪は犯していたものの裕福な人だったのでしょうか。
しかし、「下品下生」の人はなおも問題を抱えていました。「此の人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。」とありますように、念仏を行う心の余裕も持っていなかったのです。そこで、善知識の方は一計を案じました。
「善友、告げて言わく、「汝若し念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。」。善知識は「下品下生」の人に念仏が難しいのであればと「無量寿仏」と称えることを勧めたのです。「無量寿仏」は「阿弥陀仏」と同じ仏様のことを指す名前です。
混乱される方もおられるかもしれませんがここでいう念仏とは我々が普段慣れ親しんでいるような手を合わせて「南無阿弥陀仏」と称える念仏ではなく、仏様や菩薩や浄土といった存在を心に詳細に思い浮かべる修行を指しています。「観想念仏」と呼ばれる手法です。
確かに、ひどく動揺している時は浄土や仏様の姿などは真剣に思い浮かべづらいですよね。特に今まで仏教を信じずにずっと悪いことばかりしてきた人なら猶更難しいでしょう。「下品下生」の人はいいアドバイスをくれる人に巡り合えたようですね。
汝、「無量寿仏」と称すべし
善知識に「無量寿仏」と称えるようにとアドバイスを貰った「下品下生」の人でした。しかし、なぜかアドバイスを受けた後に「是くの如く心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」とあるように「南無阿弥陀仏」と称えてしまいました。
一見、なぜ言う通りにしないのかと思ってしまいまうでしょうがこれでOKなのです。なぜなら、「無量寿仏」も「阿弥陀仏」も同じ仏の名前を意味しているからです。
ちなみに、「南無」というのは「あなたを信じます」や「あなたを頼りにしています」のような意味だという認識で構いません。詳しい意味は親鸞聖人が論じているのですが、今取り上げると本筋の話からズレてしまいますので。
というわけで、「下品下生」の人は「十念を具足して」とある通り十回ほどしっかりと南無阿弥陀仏と称えたようです。それでは、南無阿弥陀仏と称えたことで「下品下生」の人の身には何が起きるのでしょうか?
なんと、「仏名を称するが故に、念念の中に於いて八十億劫の生死の罪を除く。」とある通りに南無阿弥陀仏と称えたことで八十億劫もの生死の罪を取り除くことができたようです。恐るべし、南無阿弥陀仏の効能。
「仏名を称するが故に、念念の中に於いて」とあるので十回の南無阿弥陀仏ではなく、一回一回の南無阿弥陀仏に八十億劫もの罪を除く効果があるので合計で八百億劫でしょうか?とんでもないですね。
なお、「劫」という単位に疑問をもたれる方もおられるかもしれませんが、要は「とんでもなく凄く長い時間」という風にお考えください。
極楽世界(浄土)での救済・悟りを求める心の発起
命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪の如くして其の人の前に住す。一念の頃の如くに、即ち極楽世界に往生することを得ん。蓮華の中に於いて十二大劫を満てて、蓮華、方に開く。観世音・大勢至、大悲の音声を以て、其れが為に広く諸法実相・除滅罪の法を説く。聞き已りて歓喜す。時に応じて即ち菩提の心を発す。是れを「下品下生の者」と名づく。是れを「下輩生想」と名づく。
『真宗聖典』
この部分では、どうしようもない悪人であっても阿弥陀仏の慈悲によって救済されることが示されています。極楽という世界に生まれ変わった「下品下生」の人は、まず「金蓮華」という光輝く蓮の花の中で一定期間過ごします。
金蓮華の中で過ごす時間は「十二大劫」というこれまた広大な時間ですが、現世で荒んでしまった「下品下生」の人の魂を浄化するのに必要な時間なのでしょう。どうしようもない悪人が悟るための準備は一筋縄ではいかないのです。
蓮華が開いた後は観世音・大勢至菩薩にの二人にまみえます。そして、二人から仏教の深い教えを直接聞く機会を獲るのです。教えを聞いた人は大いなる喜びを感じて本気で悟りを求める心を起こすことができます。
だいたい以上のような話ですが、次の段落からもう少し詳しく説明していきたいと思います。
金蓮華を見る「下品下生」
「下品下生」の人の命が途絶えた瞬間に、「下品下生」の人は「金蓮華」というものを見ます。蓮華とは、泥の中で美しく咲く花のことを指します。仏陀の悟りを表す花としてしばしば経典の様々なエピソードに登場するものです。
ただし、金蓮華はただの蓮の花ではなく非常に強い光を放つ太陽のような輝きを持つ蓮の花です。「命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪の如くして其の人の前に住す。」とあることからも金蓮華の輝きの強さがうかがえます。
金蓮華を「下品下生」の人が見たというのは、「下品下生」の人が「極楽浄土」に往生したことを示唆しています。なぜなら、金蓮華のように光輝く花は他の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天といった悪道と呼ばれる悪い世界には芽吹かないからです。
極楽浄土というのは、阿弥陀仏が治める煩悩や腐敗や悪意などのない綺麗な世界を指しています。我々が想像するような酒池肉林の花園とは異なりますが、天国と呼んでも差し支えないでしょう。「一念の頃の如くに、即ち極楽世界に往生することを得ん。」と本文にも生まれ変わりが明言されています。
「一念の須臾の如く」にというのは非常に短い一瞬を意味します。「下品下生」の人は亡くなった直後にすぐさま浄土に生まれ変われたようです。仏の力による救済が非常に速く行われることが分かりますね。いかなる罪を重ねていようと仏の慈悲の力には遠く及ばないのです。
そして、「蓮華の中に於いて十二大劫を満てて、蓮華、方に開く。」とある通り金蓮華の中に包まれて「十二大劫」という長い時間を過ごすそうです。やはり、罪を背負ったことによる一応のペナルティはあるらしくとてつもない時間を蓮華の中で過ごすことになるようです。
観世音菩薩・大勢至菩薩との出会い
やがて、蓮華が開いた後は観世音菩薩と大勢至菩薩が「下品下生」の人の目の前に現れます。観世音菩薩と大勢至菩薩は両者とも阿弥陀仏の脇侍菩薩とされる菩薩たちです。法隆寺などで阿弥陀三尊像というものを見ることができますが、三尊とは阿弥陀仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を指しています。
そして、大いなる慈悲に満ちた声によって「下品下生」の人のために「広く諸法実相・除滅罪の法を説く」そうです。「諸法実相」とは「すべての事柄・物体のありのままの姿」もしくは「究極の真理」を指す言葉です。
また、「除滅罪の法」とはそのまま「罪を滅し除く教え」のことです。臨終の前に罪を滅し尽くしたはずの「下品下生」の人に改めて滅罪の教えを説く必要については考察が必要な所ですね。「下品下生」の人が仏として他の人々を救うために説明しているのかもしれません。
もしくは、極楽浄土で深い悟りに入るためには念仏のみでは不十分なのかもしれません。確かに、称名念仏は浄土に生まれるために功徳を積む方法としては最も優れた手段だといえます。ですが、一度浄土に往生してしまえば称名念仏という行為はただ阿弥陀仏の功徳を讃えるだけの行動ですね。
そのため、滅罪のために必要な手段を新しく教える必要があったということなのかもしれません。
それから、「聞き已りて歓喜す。時に応じて即ち菩提の心を発す。」とある通り教えを聞いた「下品下生」の人は大いに喜び菩提の心を発したようです。菩提の心とは「菩提心」のことを指しています。「菩提心」とは簡単に言うと「悟りの智慧を得ようとする心」のことです。
また、「仏としての道を歩む最初の一歩」を指す言葉でもあります。ただ、他にもいろいろと深い意味がるようです。たとえば、唐出身の僧侶である不空さんは『菩提心論』という本を百巻ほど書いて菩提心の意義について論述しています。よって、今回はさすがに割愛させていただきます。
最後に、「是れを「下品下生の者」と名づく。是れを「下輩生想」と名づく。」という言葉で『観無量寿経』の「下品下生」は締めくくられます。今までの釈迦の語りの部分は「下品下生の者」、もしくは「下輩生想」と名のつくエピソードであったことが分かります。
なお、「下輩」と名付けられた往生の方法は『無量寿経』で説かれるエピソードで登場するため、『観無量寿経』と『無量寿経』との関係性がうかがえます。
まとめ
今回の記事では、『観無量寿経』に描かれている「下品下生」のエピソードについて詳しく解説しました。このエピソードは、極めて重い罪を犯した人々が、阿弥陀仏の慈悲によってどのように救済されるのかを示しています。
「下品下生」とは、最も低いレベルの往生を指します。特に悪業を重ねた人々に対する救済の過程が描かれています。ですが、現代人はただ生きているだけでも世界のどこかにいる誰かを苦しめたり殺したりしています。よって、大半の人がこの「下品下生」に該当するはずです。
記事では、「下品下生」の救済のプロセスを三つの段階に分けて説明しました。まず第一に、不善業を行った者が悪道に堕ちる過程についてです。「五逆」や「十悪」といった仏教で最も重い罪を犯した者は、地獄道・餓鬼道・畜生道といった悪道に堕ちます。
そして、罪を犯した者たちは悪道で多くの苦しみを受けることが説かれています。「五逆」・「十悪」の罪を犯した者は、仏教の教えに反して生きた結果として無限とも思える時間を悪道で過ごします。罪の報いを受け続けることになるのです。
次に、臨終の際に善知識によって救われる可能性について述べました。どんなに罪深い者であっても、臨終の際に善知識と呼ばれる仏教に精通した導き手に出会うことで、救済への道が開かれます。仏教に精通する善知識は、苦しみと恐怖に囚われた者に対して、心を安らげ正しい教えを説きます。
そして、念仏を行うように導くことで「下品下生」の人は阿弥陀仏の名を称えることができます。八十億劫もの生死の罪が除かれて極楽往生が可能となります。仏の慈悲がいかに広く深いものであるかがよく分かります。
最後に、極楽世界での救済と悟りへの道について解説しました。救済された者は極楽浄土に生まれ変わり、「金蓮華」と呼ばれる光り輝く蓮の花の中で、長い時間を過ごすことになります。罪深い者が浄化され、悟りを開く準備が整えられる重要な過程です。
蓮華が開いた後、「下品下生」の者は観世音菩薩と大勢至菩薩から仏教の真理と罪を除く法を説かれ、大いなる喜びを得ます。そして、菩提心を発起して仏道に進む新たな道を歩み始めるのです。
今回の記事を通して、仏という存在が深い慈悲と救済の力を持っているかを感じ取っていただけたでしょうか。どんなに罪深い者であっても最後の瞬間に正しい道に導かれることで救済され、極楽世界で新たな修行の道を歩むことができるのです。
「下品下生」のエピソードは、議論を招く内容でもありますが多くの人々に希望を与えるものなのは間違いありません。『観無量寿経』は、私たちがどんな状況にあっても救いの手が差し伸べられることを示しており、説かれる教えは現代においても非常に重要な意味を持ちます。
以上で今回の記事は終わりです。最後までお読みいただきありがとうございました!


