今回の記事では、仏教の成立から浄土真宗が成立するまでの歴史的経緯を大まかに説明いたします。
特に浄土真宗(じょうどしんしゅう)の教義の形成に大きな役割を果たした人物たちに焦点を当てて紹介する記事になっております。
ぜひ最後までお読みいただき、復習やご自身の修行などにお役立てください。
仏教創世記
約2500年前に釈迦は菩提樹のもとで悟りを開きました。
釈迦は悟りを得たのはよいものの、自らの悟りをどうやって他者に伝えるかということについて深く悩まれました。
一時は理解してもらうことを諦めてこのまま涅槃に至り、現世を独り静かに去ろうと考えられたようです。
ですが、梵天という神様の要請や、身の内から湧き出る欲望に振り回される不幸な人々の様子を見て五人の比丘たちに初めての説法を行うことに決めたと経典に記されています。
この出来事を「初転法輪」といいます。そこから釈迦は50年間悟りの道を説き広める日々を送ったのでした。
これらの教えは弟子たちに結集と呼ばれる会合によって受け伝えられ、やがて現代で私たちが仏教を知る最も身近な手段である「お経」になりました。
そして、浄土真宗が属する浄土教は釈迦が耆闍崛山において、釈迦の弟子の1人である阿難の素朴な質問に答えたことから始まりました。
素朴な質問というのは、平たく言えば「ブッダはどうして今機嫌が良いのか?」というものでした。
釈迦は理由を述べる代わりに、大昔に法蔵菩薩という修行僧がいたこと、その修行僧が阿弥陀仏という仏になり浄土という理想郷を建てた伝説を阿難を含む弟子たちに向けて語りました。
続いて、別の日に韋提希という方の要請による王舎城での説法、そして釈迦自ら弟子の舎利弗に向けて話した祇園精舎での説法によって、この世界にその輪郭をくっきりと露わにしたのでした。
やがてそれらの説法はそれぞれ『無量寿経』(むりょうじゅきょう)・『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)・『阿弥陀経』(あみだきょう)という名前の経典として記録され現代に伝わっていきます。
しかし、以上のことは浄土教の代表的な三つの経典、「浄土三部経」(じょうどさんぶきょう)に焦点を当てた場合の話であり、浄土教に関する教えが説かれた経典自体は他にも膨大にあります。
例えば、『華厳経』(けごんきょう)の「入不思議解脱境界普賢行願品」という部分に浄土往生が願われている文章があり、『法華経』(ほけきょう)の「薬王菩薩本地品」には、その内容を聞いたうえで説かれた通りに修行すると阿弥陀仏の浄土に往生できると説明されています。
以上のように、釈迦はところどころの説法で浄土教についてお説きになられていたようです。
インドでの浄土教の広まり
浄土教の思想が本格的に広まり始めたのは二世紀頃になってからです。
この頃に、あらゆる大乗仏教宗派の祖と言われるインド人僧侶、龍樹(りゅうじゅ)が誕生します。
龍樹は『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)・『十二礼』(じゅうにらい)・『大智度論』(だいちどろん)といった論書を書いたことで有名です。
論書というのは、現代で言う所の仏教の解説書のようなものです。
論書には1つの経典について解説したものや、特定のグループに属する経典全体の解釈を述べたり、自らの仏教観を表現したものなどがあります。
龍樹は特に大乗仏教全体を包括する論書を書き、後世の仏教学に大きな影響を及ぼしました。
彼が書いた『十住毘婆沙論』・『十二礼』・『大智度論』では浄土教についての解説も多く見られます。
さらに五世紀ごろになると同じくインド人の僧侶である天親(てんじん)という方が『無量寿経』の解説書として『浄土論』を作成しました。
この『浄土論』は、やがて中国・日本に浄土教が流行するきっかけとなります。
中国浄土教の広まり
中国には後漢の明帝永平十年(西暦67年)に、インドの迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)の二人が初めて仏教を伝えました。
ちなみに、この時摩騰が浄土教経典の主役である阿弥陀仏の肖像画も持ってきていたと言われています。
阿弥陀仏の画像が作られていたということは、当時のインドでは浄土教がそれなりの規模を誇っていた可能性を示唆していますね。
その八十年後に桓帝の建和初年(西暦147年)に安息国の僧侶であった安世高(あんせいこう)が中国に訪れて、月支国(げっしこく)の僧侶であった支婁迦讖(しるかせん)とともに『無量寿経』を漢文に翻訳しました。
そこから『無量寿経』はさまざまな人に十二回ほど翻訳されて今現存しているのは五つとなっています。
この間に『観無量寿経』・『阿弥陀経』もそれぞれ2、3回ほど翻訳されました。
『観無量寿経』に関しては畺良耶舎(きょうりょうやしゃ 西暦382-443年)という方が翻訳したものが現在よく用いられています。
一方、『阿弥陀経』は鳩摩羅什(くまらじゅう 西暦344-413年)という方が翻訳したものがよく用いられています。
鳩摩羅什は『阿弥陀経』の他にも『法華経』や『般若経』、『維摩経』といった人気の経典を多く翻訳しました。
このようにして、浄土教は中国の地に定着しました。
後漢から西晋の終わりまでの約300年間は、中国で経典やインド人僧侶の解説書が多く翻訳されました。
東晋の時代になると、竺僧顕(じくそうけん・西暦320年ごろ)や道安(どうあん・西暦312ー385年)といった僧侶たちが弥勒の浄土を願う流派を形成し、廬山の慧遠(えおん・西暦334-416年)という方に至ってようやく中国浄土教が流行するようになりました。
慧遠は115人の仲間たちと白蓮社(びゃくれんしゃ)という組織を創設して、現在の江西省の廬山(ろざん)で毎日6回念仏したと伝えられています。
これは廬山流念仏という浄土教の流派になり、明(西暦1368ー1644年)の時代にまで教えが受け継がれることになります。
しかし、現在日本に伝わっている浄土教は廬山流とはまた別の流派になります。
現在日本に伝わる流派の念仏はもう少し遅れて誕生します。
続いて、梁の武帝の天監六年(西暦506年)に北インドから来た菩提流支(ぼだいるし)が洛陽を訪れて天親が書いた『浄土論』を翻訳しました。
そして、この『浄土論』が曇鸞(どんらん・西暦476ー542年)という僧侶に伝えられたことで日本に伝わる浄土教の流派は始まりました。
曇鸞は、この『浄土論』に説かれている内容について独自の仏教理解によって解釈した書である『浄土論註』という本を著し、浄土教における「他力」という概念を生み出しました。
私たちが現在もよく耳にする「他力本願」という言葉も元をたどればこの曇鸞という方から生まれたといえます。
その後中国では涅槃宗の学者の浄影寺(じょうようじ)の慧遠(えおん・西暦523-592年)や、天台宗の開祖国清寺の智者(ちしゃ・西暦538ー597年)や、三論宗の学者嘉祥寺の吉蔵(きちぞう・西暦549-623年)や、法相宗の大成者である慈恩寺の窺基(きき・西暦632-682年)や、華厳宗の学者黄流寺の元暁(がんぎょう・西暦617ー686年)や、天台宗の中興である義寂(ぎじゃく・西暦914-987年)や、法相宗の憬興(きょうごう・不明)や、天台宗の知礼(ちれい・西暦960-1028年)などが、自分の宗派の研究に勤しむ傍らで浄土宗の教義を伝えていきました。
しかし、同時代の僧侶らの中には珍しく自分の宗派を捨てて浄土教一筋に専念した者がいました。
それは道綽(どうしゃく・西暦562-645年)という方です。
道綽は『涅槃経』という経典の教えを研究する宗派にいたのですが、ある日石壁谷(せきへきこく)の玄中寺(げんちゅうじ)というお寺を訪れました。
そこには曇鸞が書いた文章が刻まれた石碑がありました。
石碑の文章を読んだ道綽は深く感銘を受け、それからは浄土教の教えに専念するようになったのでした。
道綽は弟子たちに浄土教の教えを講義しながら、曇鸞の『浄土論註』の教えをさらに発展させ『安楽集』(あんらくしゅう)という書物を残しました。
続いて善導(ぜんどう・西暦613-681年)という方が、道綽に師事してその教えを継承しました。
善導は現在の浄土教の教義大枠をほとんど決定付けるような書物を多く残しました。
具体的には『観無量寿経』の解説書である『観経疏』四巻から、『往生礼讃』、『法事讃』、『観念法門』、『般舟讃』です。
曇鸞から始まり善導に受け継がれ、やがて日本に伝わり大成したものが「善導流」と呼ばれる浄土教になります。
それでは、日本の浄土教の歴史に移っていきましょう。
日本での浄土教
日本書紀によると、日本に仏教が伝わったのは西暦552年のようです。
百済の聖明王が阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩の三尊の仏像を日本に送ったのが始まりだそうです。
その後、聖徳太子(西暦574ー621年)は仏教による政治を目指して日本に仏教を積極的に広めました。
彼が制定した十七条の憲法の第二条には「篤く三宝を敬え」と述べて、仏・法・僧の三つを大事にすることを義務としたことは有名です。
他にも大乗仏教の思想において重要な『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経典について講義を行ったり、『三経義疏』という注釈書を書いたりしました。
平安時代になると、日本の天台宗の開祖である最澄(さいちょう・西暦767-823年)が比叡山で念仏三昧を勤められました。
次に慈覚(じかく)、延昌(えんしょう)、慈慧(じえ)といった人々が念仏を勤めたそうです。
また、延昌の弟子である空也(くうや・西暦903-972年)は京都を歩き回って南無阿弥陀仏を称えることを勧めて回ったそうです。
そうして比叡山横川谷では源信(げんしん・西暦942ー1017年)が念仏を行いつつ『往生要集』(おうじょうようしゅう)や『阿弥陀経略記』(あみだきょうりゃくき)といった書を作り、日本の浄土教の基礎を固めました。
日本に地獄や極楽といった概念が広まったのは、源信の『往生要集』による影響が大きいです。
源信によって広まった念仏の教えは、弱者救済の道を求める法然(ほうねん・西暦1133ー1212年)に受け継がれました。
法然は源信の浄土教にも影響を受けましたが、善導流の浄土教の考え方をより重視したようです。
そして法然はいろいろな弟子を持ちましたが、その中で親鸞(しんらん・西暦1173ー1262年)は法然の浄土教を継承しつつ自らの仏教観を盛り込んで大乗仏教における浄土教の立ち位置を明確にしました。
そうして親鸞の残した浄土教は、親鸞の遺族や弟子たちによって「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)という名の独立した宗派になったのでした。
以上が浄土真宗成立までの大まかな流れになります。
まとめ
以上、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いてから浄土真宗が誕生するまでの浄土教の歴史を大まかに解説いたしました。
省略した部分が多く、一人一人の僧侶には語るべきエピソードが膨大にあります。
ですが、読者の皆さんは今回の記事を読むことによって浄土真宗成立までの歴史をある程度把握することができたのではないでしょうか。
読者の皆さんの基礎的な仏教の知識に貢献できれば幸いです。
また機会があれば、僧侶一人一人の逸話や教義などの細かい部分をもう少し深く解説していきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。