今回、仏教について、非常に大枠の話をしてみたいと思います。
浄土真宗は仏教であります。
しかし仏教であるとはどのような意味なのでしょうか。
仏教は一つの宗教ですが、仏教を名のる教えは非常に多く、また時代的、地域的な広がりがあります。
最近では仏教というのは生産と生殖を否定する宗教だという見解を読むことがありました。
あるいは、仏教とは瞑想の宗教であるという考えを聞くこともあります。
もしくは出家主義的な宗教運動であるとか、伝統的なインドのバラモン教という考え方に対して生まれた業論を主眼とする宗教、縁起を説く宗教、苦しみを見つめ、煩悩を滅して、寂静のさとりへと至る宗教、四諦八正道を中心とした道徳的宗教、いろいろとこのようなことを聞きます。
しかし興味深いのは、浄土真宗はどうもこのような一般的な仏教の説明にぴったりと符合しないのではないかという感覚を多くの方がもたれるだろうということです。
それは、そもそも仏教を儀式の執行という側面で捉えているということもあるのだと思います。
しかしそれだけではなく、教理を学んでみても浄土真宗というのは確かに自己反省的内観の宗教であるように感じられるとしても、瞑想も出家も推奨されないし、業論という側面やバラモンに対する自由宗教という側面はそもそも日本仏教ではあまりフォーカスされません。
煩悩を滅することについてはむしろそれを滅することができないという反省を促されますし、そもそも四諦八正道が現代的な意味で道徳的と言えるかは判断を保留すべきでしょうが、これも浄土真宗であまり強調されることではありません。
そもそも阿弥陀仏は釈尊が滅したあと時間が経って生まれた架空の仏です。
このような架空の仏を礼拝の対象とするのが真に仏教と言えるのか。
それは当然の疑問だと思います。
しかし思うに、仏教の特質は三宝に帰依するという点にあるのではないでしょうか。
三宝とは仏陀、仏法、サンガのことで、これに帰依することが仏教徒である証となります。
しかしながら、仏陀に帰依するということは案外と難しいことであるように思います。
これを如実に示すのがウパカの話です。
ウパカは釈尊の「私は如来である」という宣言に対して「そういうこともあるかもしれんがの」というような反応をして去ったと言われています。
これが示すのは、仏陀が仏陀であるということは、単に客観的な事象なのではなく、弟子の側の主観的なうなずきを必要とするということです。
釈尊のもとでさとりを得た阿羅漢たち、そしてやがて彼岸に到達するという宣言(授記)を受けた弟子たちはやはりことごとく、釈尊に対して如来である、師であるという信をもっています。
主観的なうなずきを経験しているのです。
これは仏教が宗教である点からすれば自然なことかもしれません。
しかし浄土真宗の祖である親鸞は、如来の本願に対する信ということをつきつめて考えた人です。
それは親鸞自身が強烈な体験をしたからです。
たとえ教えの形式で表現されているものがあっても、なお教えとしてうなずくことができない、あるいは、教えとして表現されていなくとも、そこに教えがあるということがある。
たとえば生死を出離せよと言われても、出離せねばと思うことがない。
他方、生死を出離したいならばとあるだけで、出離せねばと受けとることがある。
前者はまさに如来を如来として仰げないということであり、後者はそこにはじめて如来が現れたということである。
これを示すのが親鸞の下山であり、法然の弟子となったということなのです。
そのような視点に立てば、このウパカの話、仏陀を仏陀として認めるという話は「仏教を受容する前提」というレベルではないように思います。
つまり、親鸞にとって仏教とは如来と出会うことを問うことであった、つまり、まことのものとして如来の教えが自らの前に現れるという経験を確かめること、あるいは、如来を如来として受けとることができるかという問題そのものであったように思うのです。
もちろん、釈尊は親鸞の誕生よりはるか昔に入滅しています。
歴史上の釈尊と会うことはかないません。では、どのように出会うのか。
それを親鸞は必ずしも死後浄土に行ってそこで阿弥陀仏と出会うというように語っていないように思うのです。
親鸞は阿弥陀仏を「諸仏中の王」、「光明中の極尊」と経典を引いて説明します。
それは単に阿弥陀仏が諸仏のなかでもっとも相対的に地位が高いとか、もっとも物理的に光を放っているとか、そういうことではありません。
親鸞にとって光とは智慧のメタファーです。
そしてこの智慧とは、必ず一切衆生を救おうとする慈悲の意欲と一体のものです。
つまり、親鸞は智慧と慈悲とをもっともよく表現しうるものに対して帰依しているのであり、それが南無阿弥陀仏——阿弥陀仏に帰依しますということなのです。
これは仏教の歴史そのものです。
仏教とは、歴史的には釈尊を如来として仰ぐことから始まりましたが、これは釈尊を智慧と慈悲を示現するもの、釈尊のことばはまさに仰ぐべき教えであるとして仰いできたということであり、阿弥陀仏への帰依はその象徴的表現なのです。
そこには、仏陀という人格を仰ぎつつ、その智慧である法、それを成立させるサンガへの信とまったく一体のものがある。
仏教とは帰依三宝を核としてもつ宗教であり、浄土真宗はこの帰依三宝ということを阿弥陀仏ということを通して深く感応した宗教である、今回はこのようなことを記して、文を終えようと思います。
