今日は「阿弥陀経について思うこと」という題で記事を書きます。
『阿弥陀経』は浄土真宗や浄土宗で用いられる経典です。
お釈迦さまが突然弟子の舎利弗さんに「西に極楽という世界があって、阿弥陀っていう仏がいてね…」と語り始め、最終的には「阿弥陀仏の名前を毎日真剣に称えれば極楽に往生できるよ。」と説いて終わります。
『無量寿経』や『観無量寿経』も似たようなことを説くのですが、このお経は比較的コンパクトに収まっている感じがします。
というのは、他の2つの経典は「阿弥陀の名前を称える」以外の修行方法も説いていたりしているからなのだろうと思います。
『阿弥陀経』は「阿弥陀の名前を称える」方法と、極楽がどんなところなのかとか、他の仏様たちがいかに阿弥陀と極楽を褒めているかに終始していますし。
でも、やはり気になるのは、「毎日真剣に称えれば」とある部分でしょうか。
『無量寿経』や『観無量寿経』では10回ないしは1回でも真剣に称えられればOKだと解釈できるのですが、ここがやはりネックです。
この部分が原因で分派したり口論になったりしたくらいですからね。
浄土真宗ができた頃は、1回のみの念仏にこだわる「一念義」や、いっぱい念仏を称えることを信条とする「多念義」などが冗談抜きで現れて大変なことが起きていました。
開祖の親鸞さんは最終的に救われるには1回で十分だし、その後何回称えようと往生の妨げにはならないよという結論なのですが。
やはり、我々としては1回阿弥陀仏の名前を称えたくらいでは救われた気がしないのでしょうね。
正直に言うと、自分もそうです。
だからこそ、『阿弥陀経』で仏はあえて「毎日念仏すれば往生できるよ。」と説いたのだろうと思います。
そもそも、1週間ずっと絶え間なく念仏するなんて人間の肉体じゃ不可能じゃありませんか。
いったんそういう不可能なことに挑戦させて挫折してこそ、「1回でいい」という教えが身に染みてありがたく感じられる。
そうして信仰を確立した上で、「南無阿弥陀仏」と名前を称えることで、往生が可能になる。
それが仏様なりの慈悲なのでしょうな、と感じたわけです。
以上で今日の記事は終わりです。
最後までお読みいただきありがとうございました。


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