人生で役に立つかもしれない浄土真宗の考え方

教え

今回は「人生で役に立つかもしれない考え方」という記事を書きます。

ここでいう考え方というのは、”浄土真宗的な”考え方です。

結論から言いますと、「前世に自分はどんな罪を犯したんだ」「こうしたら呪われるんじゃないか」なんて心配しなくていいよ!ということです。

人間はあらゆる物事にストーリーを見出すのが得意な生き物です。

蚊を叩いて殺したら呪われるんじゃないか、今私が不幸なのは前世で悪いことをしたからだ…

などなど、些細な行動を一切関係のない結果にむすびつけることがしばしばあります。

でも、浄土真宗では前世の罪や他者からの呪いの存在に惑わされる必要はないと説いています。

念仏さえ称えれば心配ない

例えば、『歎異抄』という浄土真宗の有名な本の中では次のように書かれています。

 一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=629

要約すると、「念仏を称える人に対しては、神様は敬意を持って接し、悪魔はちょっかいをかけたりしない。念仏はあらゆる善行の中で最も優れたものだから、罪による報いも(法律に触れること以外なら)受けることはない。」ということです。

この文章は主に仏教の念仏者の信仰について述べられています。念仏者が「無碍の一道」とされる理由は、信心を持つ者が天の神々や土着の神々から敬われ、魔界の悪魔たちや外道の人々からも迫害されることがないという点にあります。

また、前世に自分が造り上げた罪悪や業報も念仏の功徳を弱めることがなく、念仏以外のいろいろな善行も及ばないほどの功徳があることも強調されています。

信心が強固であれば、外部からの干渉や悪影響を受けずに、自らの道を進むことができるという考え方です。

なぜ念仏が最も優れた行なのか?

なぜ念仏はすべての善行の中で最も優れたものなのか?簡単に言ってしまうと仏様がそう考えたからです。

遥か昔、法蔵菩薩というお坊さんがいました。法蔵菩薩は師匠のもとで修行をしながら苦しむ人々を一切漏らさず救う方法を考えていました。

人々を救うには腐敗や欲望うごめくこの世界では不可能でありどこか違う理想の世界(浄土)を創り人々をそこに集めることが必要でした。しかし、人々を移動させるにしてもその条件が難しければ誰も救うことができません。

そこで法蔵菩薩は考えた末に、浄土を建てる際に自身の浄土に人々が訪れるための条件を「念仏を称える」ことに設定しました。なぜそうしたのかというと、念仏が人間にとって一番簡単な修行だったからです。

やがて、阿弥陀仏は修行を終えて無事に仏様となったわけですが、その瞬間から念仏は最も優れた修行方法になったのです。なぜなら、念仏は阿弥陀仏の浄土という最も優れた世界へ生まれるための行いだからです。

阿弥陀仏の浄土に生まれたものは理想的な環境で修行して瞬く間に仏になります。仏になった人々は腐敗と欲望に支配された現世に戻り人々を浄土へ導いたり仏の正しい教えを説いて迷いから救います。

結局自分も他人も救うことになるのですから、念仏はもっとも功徳のある善行ということになるわけです。

阿弥陀仏の浄土は単なる天国ではなく、人々を救う仏様になれる場所です。未来で仏様になって人々を救う人を神様は邪険には扱わないでしょう。

他にもある念仏の功徳

また、念仏を称える人には現世で次のようなオマケもついてきます。

南無阿弥陀仏をとなうれば 梵王帝釈帰敬す
諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=487&q=%E7%8F%BE%E4%B8%96%E5%88%A9%E7%9B%8A

南無阿弥陀仏と称えることで、梵天や帝釈天などの神々が夜も昼も常に守ってくれます。

こんな人を悪魔が襲うはずがありませんよね?

他にも過去・現在・未来の罪業も軽くなるなどの利益があります。

以上の理由で、浄土真宗では悪霊や悪魔に祟られたり、前世の罪を恐れたりなどをする必要がないと考えるのです。

そう考えると、なんだかちょっぴり気が楽になったような気がしませんでしょうか?

信じることは難しい

ここまで読んだみなさんは、浄土真宗が信心を持つことや念仏を称えることの大切さを説く教えだということがなんとなくお分かりいただけたかと思います。

しかし、浄土真宗は同時に信じることがいかに難しいかも強調することに特徴がある教えです。例として親鸞聖人は『阿弥陀経』の教説を参考にして以下のような文章を書いています。

弥陀仏の本願念仏は、邪見・憍慢悪衆生、
信楽受持すること甚だ以て難し。難の中の難、斯れに過ぎたるは無し。

親鸞『顕浄土真実教行証文類』

信じることは、他者や自分に対する信頼や期待を意味します。しかし、信じることにはリスクが伴うものです。なぜなら、私たちは過去の経験や裏切りから学んだ恐怖や不安を抱えているからです。一度信頼を裏切られた経験があると、再び誰かを信じることは一層難しくなります。

たとえば、人間関係において、誰かを信じることはその人に心を開き、自分の弱さや本音を見せることを意味します。これは勇気のいることであり、時には痛みを伴うこともあります。

しかし、信じることで得られる絆や共感は深い満足感や幸福感をもたらします。信じることができる相手との関係は、人生を豊かにしてくれる大切なものです。

また、自分自身を信じることも難しい課題です。自己不信や自己批判が強いと、自分の能力や価値を疑ってしまいます。しかし、自己信頼を育てることで、自分の可能性を広げ、新しい挑戦に対する意欲が湧いてきます。

自己信頼を持つためには、小さな成功体験を積み重ね、自分の努力や成果を認めることが重要です。

信じることの難しさは、信じた結果が必ずしも期待通りになるわけではないからです。しかし、信じることを恐れずに前進することで、人生はより豊かで意味深いものになります。信じることで得られる喜びや成長は、たとえ失敗や挫折があっても、私たちにとって価値ある経験となるのです。

ですから、信じることの難しさを認識しつつも、その先にある可能性や希望を見据えて、他者や自分を信じる勇気を持ち続けたいですね。信じることができる関係や自己信頼を築くことで、私たちの人生はより充実したものとなるでしょう。

まとめ

今回は「人生で役に立つかもしれない考え方」という題で記事を書かせていただきました。

浄土真宗では、悪魔や呪いや前世の悪業、天罰などは”念仏”を日頃からしていれば起こらないと考えます。

要は、仏はあなたを見放さないということです。

だからといって、理不尽なことが起こらないというわけではありませんが、ちょっと心が軽くなったのではないでしょうか?

何か困難にぶつかった時は、天に見放されたと考えず、諦めずトライしてみましょう!

以上で今回の記事は終わりです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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